
グループ展等で紹介されたことはありますが、はたしてどれくらいの人がこの作品を認識したのでしょうか。 映像の長さがまず人を選んだのかもしれません。それ以外にも主題の設け方、内容がそうさせているところもあると思います。 正直にお話ししますと私自身も当時から割と最近まで気後れしていました。 何度見ても良い作品だと思いながら、作者、関わる人々の深刻さ、神妙さに息が詰まるような思いもしていたのです。 それは人と人が集まり関わることの難しさ、相手を敬い、耳を傾けながらも主張し、あるいは譲り、それぞれが最善を尽くそうと努めている。それでもその実践が必ずしも上手くいくとは限らない。その様子が真剣で、しかもあまりにも詳らかに映像に留められていて、それが独特の気まずさとして、あるいはもどかしさとして、受け止めきれなかったのかもしれません。 そこでの注意深い振る舞いには、下手な所感などうっかり口に出せない圧がありました。(勝手にそう思っていたのかもしれません)。 それでも田中功起は、さらにこの方向性を、より強く、推し進めていきます。 「偶然と必然のミックス(それでも成功する可能性が五分五分)」、そこからの「失敗する可能性大(例えば「不安定なタスク」のシリーズなど)」の設問へ、その頃、田中は大きく移行した気がします。 例えば、本は読みやすければ良い、お酒は飲みやすければ良い、ばかりではないと思うのです。 同時に田中の作品を展示したい、という気持ちがいつもありました。何度も企画・設定しては何かがかみ合わず、実施にいたりませんでした。 今夏、あいちトリエンナーレがありました。 そこでの新作「抽象・家族」は一層手間をかけた下準備と設計によるプロジェクトでした。その設計の影響は、画作りだけでなく、映像のための絵画や展示構成にも、あるいは会期中に複数回開かれた集会(アッセンブリー)でも、そこで参加者から引き出された普段聞くことのない言葉や身振りにさえも、表れていました。 そして会期が始まってまもなく起きた「表現の不自由展、その後」の閉鎖。それを受けての田中による声明と「展示の再設定」という名のボイコット、そして会期終盤近くでの「不自由展」再開にともなう展示再開。 せる別物でもありえたはず。それでも態度と作品は相互干渉しつづけ、その状況に共感しつつも、戸惑いながら、私自身の受け止め方にも、多くの観客や関心を寄せた人がそうだったように、おそらく影響がある。他方で、そういうことを抜きに、実際に会場に足を運んで作品巡りを楽しんでいた方もいた。 私たちは同じ場所にいても違う景色を見ている。事実は事実なのにこんなにも捉え方は異なる。 その現場で、今回の映像こそ、今、ギャラリーで展示すべきだと思いました。 改めてこの映像を見るとずっとそうだと思っていた気まずさは感じられなくなりました。 価値観や相性の異なる人と時間を共に過ごすことは普段から大なり小なりあります。 そういう場での、互いの向き合い方や距離のとり方、取り組みの強弱や立ち居振る舞いも、この作品の中に見つけることができます。 そっとひとりで見ることもできますし、誰かと共に訪ねてくることもできます。一度目で時間がなければ、再訪してもいい。 この機会に、この作品にお訪ねいただくことをお待ちしております。

















