スプラウト・キュレーション:アクチデンツ

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Sprout Curation : AKZIDENZ

5.28 – 6.25, 2016

 

展覧会タイトル:AKZIDENZ(アクチデンツ)

会期:2016年5月28(土)-6月25(土)
オープニング・レセプション:5月28(土) 18-20時

会場:青山|目黒
〒153-0051 東京都目黒区上目黒2-30-6
東京メトロ日比谷線・東急東横線[中目黒駅]
または[祐天寺駅]より徒歩約10分弱・駒沢通り沿い

開廊:火-土曜(日・月・祝休)12-19時

出品作家:
加納俊輔|Shunsuke Kano
多田圭佑|Keisuke Tada
服部憲明|Noriaki Hattori

キュレーション:志賀良和(スプラウト・キュレーション)

お問い合わせ:info@sprout-curation.com

協力:青山|目黒/ Maki Fine Arts

 

  
AKZIDENZ(アクチデンツ)

世界は偶有性に満ちていて
ほんの一刹那前には、
全く別の現在になる可能性が無限にあった。

1980 年代生まれの 3人の日本人男性アーティストによるグループショーAKZIDENZ〈アクチデンツ〉は、計画当初「誰かの代わりに」という仮題でスタートした。ここで言う「誰か」とは、特定の誰かではなく誰でもない誰か、つまり「人間」を意味する。 人間の代わりに、別な言い方をすれば、人間がいない世界はどうなっているのか?

実のところ、人間の認識は有限であり、このように人間不在の世界を考えることは、 それ自体が不毛なこととして片付けられてきた経緯がある。しかし近年、いわゆる「思弁的実在論(クァンタン・メイヤスー)」は、そうした「カントの相関主義」を否定し、世界が偶有性に満ちていることを示した。一方で素朴実在論とも距離を取る形で、「新しい唯物論(グレアム・ハーマン)」などと共に大きな思潮を作り出すに至っている。

私はこの極めて小さなグループ展を通じて、世界が豊かな偶有性に満ちているという 感覚にどうにかして触れてみたかった。そして「誰かの代わりに」ではなく、もっと端的にそのコンセプトを表す語を模索していたとき、偶然そのヒントを自分のMacのフォントリストに発見する。

それはAkzidenz Groteskという古典的なフォントで(テレビ朝日のロゴタイプがまさにそれなのだが)、通常、フォント名にAkzidenzなどの語が付加されることはない。改めて奇異に思いAkzidenzの意味を調べてみると「偶有性(独)」とある。英語のAccidentが我々日本人には馴染みが良いが、どうしてもネガティブな「事故」のニュアンスが先立ってしまい、あるいは「ハプニング」を想起されても本展にその要素は無い。私は迷わず本展のタイトルを、あえて馴染みのないドイツ語のAKZIDENZ〈アクチデンツ〉に変更する旨、3人の参加アーティストに伝えた。

(志賀良和=文)
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加納俊輔
Shunsuke Kano
b.1983
kanoshunsuke.net  
視界周縁のイメージ

普段我々が写真を撮ろうとすると、その画面はフォーカスされた対象=オブジェクトと、背景に大別されてしまうことが多い。それは人間の視覚が、対象を視野の中心にフォーカスする、ある種の指向性に原因があると思われる。よほど意識して視野の周縁を 認識しようすると、今度は中央への注意が曖昧になり、地と図は決定不可能に陥る。

それに対して加納俊輔は、意識的に、あるいはまさに「思弁的」にカメラを操作して、普段は我々の視覚の指向性が邪魔をして認識することができない、視界の周縁の情報を探り出そうとする。そうして写真というメディウムを通した「人間不在の光景」がイメージとして私たちの眼前に晒される。

ここで、ジャン・ボードリヤールの撮る写真をリファレンスとして提示しておきたい。 あまり知られていないが、哲学者ボードリヤールは、日本でコンパクトカメラをプレゼントされたことがきっかけで写真を撮り始めたという。そして実に興味深い100点近い写真と、短いテクストで構成された『消滅の技法』という書籍を残している。

おそらく写真を撮りたいという欲望は、次の事実を確認することから生まれてくるのだろう。–意味の側から全体を俯瞰してみた世界は、まったく失望を誘うものであるが、不意に細部を見たならば、世界はいつでも完璧に自明の存在である、ということを。(ジャン・ボードリヤール『消滅の技法』1997年パルコ出版)
加納俊輔が直接的に影響を受けてはいないにせよ、また言うまでもなく、ボードリヤールの言説が、いわゆる「思弁的実在論」とは別の位相にあるとしても、こうした言葉は、 少なくとも加納の作品の理解に重要な指針となり得る。

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多田圭佑
Keisuke Tada
b.1986
keisuke-tada.com    
あるかもしれない未来。償還されたディストピアの断片。

まるで廃屋から切り出してきたかのような、朽ちかけた木の床に塗料が飛び散ったタブロー。多田圭佑の2015年頃から始まったぺインティングのシリーズは、実はすべてがアクリル絵の具でできている。そのリアルさに、鑑る者は皆一様にトロンプルイユ(だまし絵)を観るような驚きを覚えるのだ。

本展へは、ダメージを帯びた宗教画のようなぺインティングを数点出品している。その佇まいから、重い物質感と、劣化に至った経年のイメージを植え付けられるが、 一度キャンバスの側面が真新しい白であることに気がつくと、その先入観はまたしてもあっさりと覆される。だがいずれにせよ、多田の関心はフェイク/本物の間で人をいたずらに揺さぶり、驚かすだけの単純なことではない。

実際これらの作品には、確かに宗教的アイコンらしきものが描かれてはいるが、ダメージが加わることで「古ぼけた宗教画がある光景」となり、そこではむしろ人間の生の不在が際立ってくる。もはやどのレイヤーが上なのかすら区別がつかない「宗教画」とダメージのテクスチャー。その画中の闇とノイズの断片からは、得体の知れない不気味さが不意に漂ってくる。多田の作品の面白さは、こうした薄気味悪さにこそある。

筆のストロークのようなスポンテニアスな身体性を抑制し、工業系の、例えばテーマパークの背景セットを造る技術などを用いていることが、作品に空虚感を与えているとしても、重要なのはそのイメージソースである。多田自身は日々リアリティを増すTVゲームであると分析する。特に惹かれるのは、核戦争後/文明亡き後の世界を描く、ポスト・アポカリプスと呼ばれるサブジャンルだという。未来に置き去りにされた、ディストピアの断片を現在に召喚し、キャンバスにプロジェクションしたかのようなイメージ。ありもしない、だが明日あるかもしれない世界の仮象が、こうして立ち上がる。
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服部憲明
Noriaki Hattori
b.1981
noriakihattori.com
作られる前には何があるのか。

「ロックは死んだ/パンクは死んだ/ジャズは死んだ」。音楽におけるこのような文脈で言うなら「ペインティングは死んだ」のだろうか?ゲルハルト・リヒターならずとも、ぺインティングはたびたび総括され、またその都度様々な形でアップデートが試みられてきた。特に若い世代の多くのペインターあるいはアーティストにとって、ツールやメディウムの大胆な転換と、イメージを如何に支持体に定着させるかは、今最も重要な関心事のひとつとなっている。

日本には数少ないが、服部憲明もそうした一人で、2013年以降明確な意図を持ってメディウムとツールの方向転換をしている。パソコンはもちろん、工業用のレーザーカッター、UVプリンタなど同時代のツールを用い、それは言わばウェイド・ガイトンなどに象徴される「人間の手」を介さない、コンピューターの振る舞いとしてのペインティングである。メディウムをレーザーで焦がす/切る/削る。あるいはプリントした複数のイメージをオーヴァーラップする。アウトプットに際しては、反復不可能な偶然性を呼び込むために、メディウムの組成やコンディションに可変性を持たせ、さらに空間にある光や風など、環境すらも要素として取り入て見せる。こうした一連の作 品は、再び音楽を例に取れば、インダストリアル系と呼ばれる同時代のシーンと呼応しているようにも感じられる。

本展への出品作は、アップデートした絵画というよりは、アップデートの状況そのものに対するメタレべルでの検証という意味合いが強い。例えば、一見無造作に立てかけられた、垂木のような細長い四角柱は、フレームのパーツを見立てている。これらは建設用素材のモルタルをモールディングし固めたもので、テクスチャーにイメージが定着されている。そもそもフレームは、無為の空間からぺインティングをイメージとして隔絶するものとして在る。つまり、ペインティングをぺインティングたらしめるフレームそのものを、組み立てられる以前のパーツのまま存在させるインスタレーションなどは、ぺインターである服部のアティチュードを、パフォーマティブに表現した作品と言えるだろう。

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