豊原国周(1835-1900)は、歌川豊春から派生する歌川派の終焉に活躍し、なおかつその全盛期を体現するスーパースターでありながら、現在ではほとんど忘れ去られている当時のメジャーな存在です。
国周の作画期の始まりは既に明治期でありながら、彼が描いたモティーフは一貫して明治ナイズドされた“予め失われていた江戸”を表現していました。
この時期は、写真(ブロマイド)や油絵が急速に普及し、絵師たちは時代の移り変わりに適応していきました。開化絵(急速に西洋化する都市の風景や洋装、博覧会、蒸気船、気球、鉄道などの新しい時代の光景)、戦争画、新聞絵など、浮世絵師の仕事が新たな分野へ移行していく時代でした。しかし、国周はこれらの分野には手を出していません。この状況を評して“時代に翻弄された絵師たち”という言葉がよく使われますが、国周の活動や態度からはそのような印象は全く受けません。
国周は、それまでの浮世絵師が求められていた“特徴をよく捉えた達者さ”から、現在の漫画やアニメに通じるデフォルメしたキャラクター描写へと変容させました。
また、国周の作品は、紙の宝飾品のように繊細で極彩色の摺りと彫りが特徴的です。これを見れば、最高の天然素材と最新の輸入素材を用い、誰よりも高度な職人を版元が国周に付けていたことがわかります。国周が描くことで役者や舞台が流行し、さらにその絵がキャラクターグッズとして売れるという、循環する商業的な成功を収めていました。国周は“イケイケ”のアートディレクターであり、当時のアートマーケットの最高峰に位置していたと言えるでしょう。
国周は、今日で言うところのキャラクター文化の創始者であり、古き良き時代を最先端として再解釈したコンセプチュアルなアプローチを取ることで、浮世絵をポップアートへと変換しました。彼は現代アートのそれらの良いとこ取りを先駆的に行ったアーティストだったのです。
しかし、西洋美術史的な価値観が日本に唐突にインストールされ、浮世絵が印象派に与えた影響ばかりが強調される中で、国周の作品はその枠組みから外れてしまいました。その結果、国周の絵は芸術的価値やアートとしての評価の対象外となり、これほどメジャーで革新的であったにも関わらず今日ではほとんど誰も憶えていない存在となっています。(歌川派の直系なのに本人が断固として名乗らないこともまた謎めいています)
この忘却こそが、現代アートのスペースで今改めてご紹介するにあたり相応しい完璧な存在です。
撮影: 西山功一